子供の脳の段階的発達から見た学習指導の在り方(旧題:なぜアカデミアには非常勤講師がいないのか?)推敲版
A: 別冊の解答を横目で見ながら練習問題の答えを読み上げるのと、人を教えるのでは意味が違います。
学習指導をあくまで後者として考えると、小中高とそれぞれの年代に固有の難しさがあります。
【小学生】
もちろん学習内容に何ら難しいところはありません。教科書内容を教えるだけなら、ちょっとできる中学生なら務まるレベルです。ましてや、マルつけだけなら本当に誰でもできます。
したがって、小学生指導の難しいところは学習の内容それ自体ではなく、小学生は本来は後年の学習行為の基盤となる勉強のマナー、スタイル、エチケット、学習習慣を養成する年代である一方で、分別や集中力が未発達なため、案配を見ながら少しずつ仕込んでいかなければならないという点にあります。
たとえば、
人の話や指示をしっかり聞く
自分が伝えるべきことを的確に発言する
板書をノートに正確に写す
計算や漢字を見間違いのないように正しくノートに書く
ミスをせずに正しく答えを記述する
単純な反復練習への耐性をつける
すぐに答えが出なくても投げ出さずにしばらく考える
宿題や暗記テストといった責任を果たす
そもそも毎日一定時間机に向かう学習習慣を身につける
といったことは、中高大はおろか社会に出てからも必要な素養です。
なぜならば、中高大そして社会人としての勉強の本質は、有り体に言えば、日々膨大な情報を「入力・記憶・出力」することの繰り返しですが、上掲の素養、すなわち非認知スキルは、そのプロセスを円滑に行うための入力装置に他ならないからです。
どんなに高性能なコンピューターでも、データとコマンドを打ち込むための入力装置がなければただの箱に過ぎないように、たとえどんなにハイスペックな頭脳を持って生まれても、非認知スキルがなければ宝の持ち腐れです。
たしかに、後年になってからでも非認知スキルを獲得することも可能です。しかし、入力装置が未整備なまま中学・高校へ放り込まれ、情報の絨毯爆撃を浴びて点が取れないという深傷を負いながら、勉強以外の訓練を通じて非認知スキルを養うというのは実践的に不可能です。
だからこそ、学習内容にも時間にも余裕がある小学生のうちに、非認知スキルを身に付けておくべきなのです。
というよりは、そもそも小学生とは勉強の出来云々よりも、あらゆる学習の基盤である非認知スキルの獲得こそ最優先するべきだとさえ言えます。実際、ドイツの初等教育はそのように設計されています。
小学生の学習内容なぞは大人になって心が落ち着けば誰でもできるレベルなのだから、私は生徒が小学生のうちは学習到達度、つまり得点や偏差値、進度の早さは全く気にしていません。
その代わりに注視しているのが、その子の勉強の仕方、つまり非認知スキルのセンスです。
端的に言えば、小学校では出来るとされる、算数が得意で国語の文章題の解答欄がスラスラと埋まるけれども、思い違いやミスが多い、課題を自宅でやってこない子より、小学校ではあまり評価されない、不器用でもしっかりと人の話が聞ける、練習を厭わない、自分が練習したことはミスなく答案にできる子の方が、非認知スキルが優れているため、結局は後伸びをして大成するのです。
たしかに、小学生は非認知スキルを構築する重要な時期です。
ただし注視と書いたのは、アカデミアでは非認知スキルが身に付くようにリードはしても、たとえばミスを問い詰めたり、宿題忘れを叱責したりといったような性急な矯正を決してしないからです。
盲導犬に幼いうちから訓練を施しても、無意味であるどころか、全てを台無しにしてしまうのと同じで、大脳と人格が未発達な小学生の段階で、形から入る矯正を子どもに施しても、本人は怒られているとかいじめられていると感じるが関の山です。
仮に恐怖感から強制的に形ばかりはやるようになっても、心底から自得したものではないので、あくまで形だけに留まり、能力としての非認知スキルとしては決して身に付きません。
自発的決意ではなく、強制による学習行為がいったん刷り込まれてしまうと、その子は勉強に対して被害者意識を持ち続け、後年になっても常にそれから逃げることばかり考えるようになってしまいます。
そして、最終的には中学か高校で遅かれ早かれ勉強からドロップアウトすることになるのです。それでも元も子もありません。
ゆえに、人格の発達の早さは人それぞれなので、発達が遅い場合には手を替え品を替え、非認知スキルの訓練をしながら、その一方で勉強面で後で手遅れにならないように最低限度の学習は施しつつ、本人が覚醒するまで辛抱強く待つより他にないのです。
それが、「案配を見ながら」の本意です。
こういうことは絶対に、学生アルバイトや定職のない非常勤講師には任せることは出来ません。小学校の勉強を教えることは簡単ですが。
小学生の脳を扱うのは非常に難しいのです。
その意味で、世間一般の思い込みとは正反対に、高校生を東大に合格させる指導よりも、小学生をスポルイルすることなしにそのポテンシャルを育てる指導の方がずっと高度な教育スキルが要求されるのです。
だからこそアカデミでは、小学生の指導には最も経験豊かな専任講師が当たっています。学習内容が最も簡単だという表面的な理由で非常勤講師や、学生アルバイトに担当させることは決してありません。
ワイン造りでは、次のようによく言われます。
葡萄の生育で一番大切なのはつぼみが出来る春が温暖であること。
春にしっかりしたつぼみが育てば、たとえ冷夏でも秋の日照が不足しても、葡萄は持ちこたえて実を結ぶことができる。
小学生とは人間としてのつぼみが出来る大切な時期なのです。
【中学校】
中学生は「脳」との戦いです。
人間の脳は15 ~ 16才までにほぼ完成しますが、中学生の年齢というのは発達的に見て、脳がその完成形へ向けて爆発的な変化を経験する時期に当たります。
まず12才頃から急激に知能が高くなって自我が発達する、その結果、他人の言うことを聞かなくなる一方、成長を爆発的に促進するために脳内で大量のホルモンが分泌されて情緒が不安定になります。
また、脳が完成する前になるべく多様な能力を獲得しておこうと、この時期の脳内では様々な神経結合が試みられますが、その中には間違った結合や効率の悪い結合が多々含まれるため、昨日まで出来たことが急に出来なくなったり、一時的に精度が下がったりということが起こります。
さらに、脳の成長の閉店間際になるべく多くの経験を積ませるために、危険に対する脳内のリミッターが一時的に解除されます。理性的になって危険を恐れていると、新しい経験を積むための一歩が踏み出せないからです。
だからこそ中学生は、向こう見ずなことをしがちな年齢なのです。昔は、中学生が非行に走りやすいのは中二の夏休みだと言われていましたが、それも脳科学的に見ると実証的に理解できます。
危険に対する脳内のリミッターが解除されるということは、「これをすると危ないから止めておこう」とか「これをしないと後で大変だ」という、因果関係を推論する回路が機能しないということを意味します。
それがすなわち、「今勉強しないと、後で取り返しがつかないことになるよ」という正論を大人が言っても、聞く耳をもたないことにつながるのです。中学生の脳内では、その因果を理解するための回路が切れているからです。
以上をふまえると、中学生時代というのは、脳が発達する途中の脆弱な過渡期であり、実は最も「勉強」に不向きな時期なのです。だから本当はこの時期の理想的な教育は、発達中の自我の赴くままにトライ・アンド・エラーで広範囲な経験を積ませることなのです。
ところが、日本の学校制度においては、この最も「勉強」に不向きな時期に、詰め込み型で管理型のもっとも不適切なタイプの学習が、制度的(高校受験)に要求されています。だから「中学生」は難しいのです。
これは当て推量ですが、中学生の時期は不安定だからこそ、戦後ベビーブームで子供が溢れかえっていた時代、その不安定な何百万人もの人たちを学校に縛り付けて社会に放たず、学校と教師の言うことを聞かせて一斉に管理するための方策として、内申点制度と学習内容の暗記に基づく高校受験という、管理教育の際たるものが導入されたのかもしれません。
それはさておき、脳が「勉強」に最も不適な時期に、管理型・暗記型の最も不適切なタイプの「勉強」を、制度的要求がゆえにしなければならないので、実に日本の中学生は難しい。
本当に中学生の脳を理解している教育者なら、彼らの脳の発達と受験制度の板挟みになってしまいます。
さらに問題を複雑にしているのは、中学生個人間の発達のスピードの違いです。中2の夏にはほぼ大人の脳の完成形に近づいている子もいれば、高校受験間近になっても脳が子供のままの子もいる。さらに、生まれ持った性質として、脳の激変期でも人格が安定している子もいれば、人の言うことに耳を貸さないという自我が完成する子もいる(それも個性です)。
つまり、同じ中学生と言っても、一人一人、脳の発達段階とパーソナリティが千差万別なので、一括りに同じような指導はできないし、すべきではない。
したがって、たしかに授業自体は一斉に同じことやらざるを得ないにしても、誰にいつどのような言葉をかけるのかは、個々人の脳と人格の発達の段階を見ながら慎重に選択しなければなりません。
それを間違えると、本人のポテンシャルが発揮される前に挫折したり、反対に増長したりして、せっかくの素材が花開くことなく終わってしまうのです。そのような実例をこれまでに何百も目にしてきました。
誤解せずに聞いて欲しいのですが、盲導犬やサラブレッドの訓練、サッカー選手の養成と同じで、中学生の学習指導もタイミングとバランスがすべてです。
早すぎてもいけないし、遅すぎてもいけない。
難しすぎてもいけないし、簡単すぎてもいけない。
多すぎてもいけないし、少なすぎてもいけない。
そして、そのタイミングは、同じ講師が生徒一人一人を長い時間をかけて気長に見守ることで、初めて見極めることが可能となるのです。
【高校生】
高校生の年齢になると、人間の脳はほぼ完成します。
したがって、この期に及んでは脳の発達が過渡期であるとかホルモン・バランスの不調に起因する諸問題を考慮する必要はなくなります。
また、学ぶ側においても、脳が完成しているからには自分の人格と取り組む姿勢に全責任を負わなければなりません。つまり発達的観点からすると、もはや自分ができない、やらないのを他人に慮ってもらったり、環境のせいにする甘えが通用する年齢ではないということです。
小中時代にどんなに利かん坊でも、どんなにへたれでも、どんなに怠け者でも、どんなに学力が低くても、この年齢になって脳と人格のアウトラインが完成した時に、正論が理解できるようになっていれば、訓練次第でいくらでも高い学力を授けることができるので見込みがあります(だから私は辛抱強く待つのです)。
一方、大人の脳になって自分の「我」が確立した時点で、合理的な正論が理解できないのなら、それまでたとえどんなに素直で、どんなに勉強ができる「良い子」であったとしても、その将来はたいへん厳しいものになるでしょう。
というのは、正論を拒むようでは、大学受験に、また将来の職業人、社会人として必要な、高度で膨大で忍耐が要求される訓練を受け入れることができないからです。
そのような次第で、高校生の指導に至って初めて、生徒の発達や情緒といったカウンセリング的要素を斟酌せずに、アカデミックな要素にのみ的を絞って取り組むことが可能になるのです。
よって、高校生を指導することの難しさは、純粋に高校における学習が孕んでいる問題にすべて起因します。
〜〜〜
では、高校における学習の問題とは何でしょうか?
それは、日本の高校課程は、義務教育の延長としてはいたずらに高度である一方、大学における高等専門教育の入門としては役不足で、どちらの目的にとっても中途半端になっているということです。
率直に言って、社会人の一般教養としては、中学の教科書を隅々まで「完全」に理解していれば十分です。それをわざわざ高校の教科書で無駄に上書きする必要はないし、もし中学でそれが身に付いていなかったのなら、ましてや高校で身に付くはずもありません。
他方、大学での高等専門教育の準備としては、一般教養寄りになり過ぎていて使い物になりません。
東大准教授の大澤昇平氏が指摘しているように、数学や理科を実用的に使いこなすことを目的とするなら、公式の暗記と無味乾燥な問題集の学習ではなく、実験や実用例を通じて学ぶのが本道です。英語も、薄っぺらい教科書を授業とテストでこなしたぐらいでは、語学として「読む・書く・聞く」能力が身に付くはずもありません。
社会と国語に至ってはオマケ扱いで、中学と変わらない体裁の教科書に、高度に見せるために言葉だけ難しくした文章が収められているだけで、そこには大学で必要になる社会理論、思想モデルを高校生に理解させようという明確な意図は微塵も感じられません。
高校生の学習教育の難しさは、まさにそこに起因します。
一般教養・義務教育の延長としての高校の機能不全はおいておきましょう。そんなことは中学で済ませられるのだから。
問題は、高等専門教育の予備段階としての高校の機能不全、ズバリ言ってしまえば、大学受験の役に立たないということです。
ここで誤解を避けるために申し添えておくと、私は特段に高校の運営者や教師、そしてその補習に群がる教育産業に非があると指摘しているわけではありません。
日本の高校の機能不全は当事者である彼らの責任ではなく、戦後の教育制度の中における高校教育の位置づけを80年近く曖昧なまま放置してきた、教育行政の落ち度です。
だからこそ、今ようやく教育行政は「高大接続」、つまり戦前の旧制高校のように高校を大学高等教育の準備段階として再設計し直そうと改革に着手しているのです。
本題に戻ります。
以上のような次第で、高校での一般的な学習は、高等専門教育の前哨戦である大学受験ではほとんど戦力になりません。
うーん、困った。
回り道をしているうちに煮詰まってきました。
ざっくばらんに行きます。
大学受験勉強のためには高校の教科書や問題集、予備校のテキストを頼りにせざるを得ないのが実情です。けれども、それらはすべて今の高校の中途半端な立ち位置という現状を内容にそのまま反映しているので、結局は内容が中途半端なのです。
つまり、大学受験問題がそれなりに「学問」であるのに対して、高校生向けの教材はどこまで行っても小中の「勉強」の延長にすぎない。たとえ天下の駿台が出版している教材でさえ。
説明法や用語はもっともらしく体裁はアカデミックに見えても、中身はただのお勉強。本物の学問の世界ではそういう考え方はしないし、そういう用語も使わない、そんなファンタジーで満ちあふれています。
よって、十回に一回まぐれでも受かれば良いとか、有名大学に入りさえすれば良いという浅薄な発想ではなく、志望した大学に満を持して百発百中で合格し、なおかつ入学後に高等専門教育を身に付けていく素地を高校時代に養うためには、高校生の学習指導にも学問の世界から下ろしてきた教養や発想が必要なのです。
高校の教科書に書かれた「お勉強」を教えるのは簡単です。解法と正答という「情報」を虎の巻を片手に板書すれば良いだけだからです。教える人間は「なぜ?」「どうして?」に応える理論を理解している必要はありません。
他方、いやしくも「学問」の末席である大学受験問題、ならびにそこへ至る訓練段階では、その背景に存在する学問的要素への理解が要求されます。
極論すれば、大学受験問題で満点を取らせるには、設問者の発想ができなければならない。換言すれば、大学受験を百パーセント正しく完璧に指導するには、本来は大学教授と同じレベルの学問的素養が必要なのです。
音楽の国際コンクールを考えてみてください。コンクールで通用する技量と解釈を生徒に指導できるのは、審査員と同等かそれ以上のレベルの奏者だけではないでしょうか?
それが、高等専門教育の前哨戦として捉えた場合の、高校教育の難しさの本質なのです。
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